明治の躍動が伝わる「御一新の嵐」

 鶴見俊輔さんや橋川文三さん(故人)らが編集した「日本の百年」(全10巻、筑摩書房)の1巻目「御一新の嵐」を読みました。10巻の「新しい開国」に次いで2冊目。このシリーズは百歳以上の6人に「私の百年」を語らせるなどユニークな歴史書です。国民の体験に焦点をあてた記録現代史だそうです。

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(幕末の船大工続豊治の西洋船づくりが函館造船所、函館ドックに引き継がれた)

 第1巻は「日本民衆漂流史」から始まります。江戸時代の1633年から鎖国が始まりますが、島国なので漂流者は自然の力で朝鮮やロシアなどに流れ着き、外国の人たちと接触しました。

 近世漂流年表が載っている。1637年に伯耆(鳥取)の漁船が竹島から朝鮮に漂着したのを皮切りに、1859年までに80件を超す。

 外国からの漂流者では、1848年に米国の捕鯨船からボートで漕ぎ出し、たった一人で利尻島に入り込んだラナルド・マクドナルドが出ています。「日本の役に立ちたい」と役人に訴えますが、牢獄に入れられ長崎まで送られた。

 長崎奉行は漂民を迎えにきた米軍艦の艦長が上から何番目に偉いか尋ねた。マクドナルドは「一番上に立つのは人民である。艦長は6番目」と答え、奉行を驚かせた。マクドナルドは入獄中にオランダ語が専門の長崎通詞(訳)に英語を教えた。優秀だった森山栄之助は5年後に黒船が来た時、ペリーの通訳を務めたそうです。

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ペリーの黒船に魅せられ57歳で船大工になった続豊治(1798-1880)


 幕府は黒船来航の翌1854年、米国と和親条約を結ぶ。船大工続豊治は高田屋嘉兵衛が没落して造船所が閉鎖されたため仏壇師になっていた。そんな時にペリーが函館にやってきた。

 豊治は黒船を見て、船づくりの情熱を再燃させた。舟をこぎつけ黒船を観察していて米人に捕われ、奉行所に引き渡された。函館奉行の堀織部正は豊治の腕を知り、異国船応接係に採用して外国船に自由に出入りできるようにした。

 それから2年、59歳になっていた豊治は2隻の和洋折衷船をつくり、翌1857年には洋船「函館丸(46トン)を建造。函館丸は江戸への処女航海で当時最短の17日間の記録を立てた。

 豊治は82歳で倒れるまで西洋船づくりを続け、彼の計画をもとに1880年には函館造船所が開設された。これは現在の函館どつくの前身です。

 文明開化で西洋の技術を積極的に導入した裏には多くの人たちのドラマがあったんですね。

 長崎に開校した語学学校「広運館」の話も面白かった。

 明治元年(1868年)に広運館と名を変えて諸藩の青年や町人の子弟も入学したが、両刀を帯びるのが規則となり、依然として武士の気風が下地となっていた。学校で時計が盗まれ、犯人の生徒は切腹を申し付けられた。翌年にも時計の盗難があり、学生たちは犯人の学生に再び自刃を要求した。

 宣教師でフランス人の校長レオン・ジュリーは「野蛮すぎる」と反対したが、学生たちは「西洋人に教えを受ける必要はない」と拒んだ。校長は「犯人はわずか16歳の少年。切腹の練習のため1週間の猶予を与えてほしい」。それから毎日、全校生徒の前で切腹の予行演習が続けられた。

 いよいよ切腹の日が来た。学生たちは息をこらして待っている。罪人はなかなか出てこない。息詰まる空気の中、生徒には一種の後悔と反省が起こってきた。その時、校長が現れた。

 「犯人は1週間も、皆さんの前で腹を切っている。彼は苦しみのために鞭打たれた。彼は屍を自分の部屋に横たえているばかりだ。いまの世に、屍に鞭打つような、そんな残酷なことができるでしょうか」

 こうして切腹は、学校の歴史から永遠に消えていきました。広運館は今の市立長崎商業高校だそうです。

 最後の章は「私の百年を語る」。鹿児島・大口市の有郷きくさんは1858年1月生まれ、インタビュー時は106歳でした。戦後になって初めて平等になったと感じたそうです。

 「こんだの戦争の前まで、士族の衆は、百姓なんどには、『わいが(お前がという意味の蔑称)わいが言葉』をつかいよったど。戦争がすんだら、世の中が一並になって、わいがわいがが、通らんごとなった。学校でさえ、はいはい言葉で言え、と教えるそうじゃ。人間の値打ちがちごっ来申したど。あたいどもが思うとった通りに」

 明治維新について筆者の鶴見さんは「われわれ日本人がみずからの手でつくり出した社会改革としてもっとも偉大なものである」と書きました。その制度をつくり出すエネルギーにおいて、さらに偉大だと。

 制度疲労が著しく、格差社会に成り下がったニッポンに新たな改革はできるのか? 考え込んでしまいました。

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この記事へのコメント

ジビキ
2015年03月10日 12:31
めいてん様、
偶然でしょうか私も同じ様なテーマで日本の100年前はどんな国だったのか?と興味があり 今年の百年前1915年を今調べております。前の年1914年には第一次世界大戦参戦し後年これに勝つでしょうし 前の日清、日露戦争に勝っているので三連勝の途上にありますね。当時未だ発展途上にある民主主義が軍政に引っ張り回されるのも時間の問題みたいですね。この先何年調べられるか体力(能力も)と好奇心がどこまで続くか?
めいてん
2015年03月10日 13:43
ジビキさま
日本は3連勝して勘違いしたんでしょうね。台湾では生活環境の整備と農業振興に力を入れて、それなりに地元民に喜ばれたようです。それが朝鮮や中国(大陸)では神社と日本語の強要などやりたい放題だから罪が深い。アヘン戦争のイギリスが一番悪いと思いますが、中国にとっては同じアジアの国なので憎さも倍増なんでしょうね。日本が輝いていた時の「坂の上の雲」(司馬遼太郎)を6月に持って行くので、参考にしてください。
山中展明
2015年03月14日 17:37
プロ野球の日本シリーズでは、3連勝から4連敗というのが、たまにありますね。歴史をつらつら眺めると、やっぱり盛者必滅、諸行無常、この現在ってやつもその流れのワン・シーンなんでしょう。
 「戦後」という言葉、今年は繰り返し使われるでしょうが、今の動きをみていると、「戦間期」という言葉に置き換えられそうな、いやな感じがしますね。
めいてん
2015年03月15日 07:07
山中さま
戦後70年とかいって騒いでますが、いま総括すべきはバブル後の20数年だと思います。大人も子供も心がすさんで、格差も広がる一方。だから、イスラム国みたいな変なものも出てくるのでしょう。困ったものです。

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